講師の信頼性、教わる側の姿勢
学校、学習塾、会話スクール、教えることを仕事にしている人はたくさんいます。習いに行くわけですから、先生を信用するのが普通です。しかし、残念ながら、先生にもとんでもないのがいます。残念なことですが、事実です。実際のエピソードをひとつ。ある予備校の英語講師です。その人は、
「動名詞と分詞は同じものです」
と言ってしまいました。受講していた生徒は、「そんなはずはない」と思いましたが、「でも、先生が言うのだからそうなのかな」と考えました。でも、気になったその生徒は、参考書をチェックしたり、他の先生にも質問して回り、結局「その先生の説明は間違い」という結論に達しました。高度に専門的でもない話なので、その生徒はその先生への信頼をなくしたと言います。実際、この先生は間違っています。受講者としてはプロとして恥ずかしくないのかと思うでしょう。だって、そんなに高度な話ではないのですから。
教える事を生業とする以上、教える側にも学びの姿勢、間違いを早急に訂正する姿勢を持つことは大切です。体力的に、精神的にきついと感じることがあるとしても、学び続けなくてはなりません。教える側だからこそ、です。さらに、万が一、生徒に誤ったことを教えてしまったとしたら、気付いた段階、指摘された段階ですぐに訂正して謝罪できなければいけません。
今、誰かに何かを習っていますか?どんな先生ですか?その先生は教えることに責任感を持っているでしょうか。ミエを張らずに、誤りを訂正できる人でしょうか。
では、習う側の姿勢はどうか。これも検討したいところです。こんな話があります。フランシスコ・ザビエル氏。教科書で落書きの標的にされる肖像画ランキング、常に上位のお方です。日本で布教活動をしたザビエルですが、ある質問をされて困ったらしいです。それは、
「そのありがたい教えを知らずに死んでいった我々のご先祖様は、今どこでどうしてんのさ」
だったそうです。自分たちは洗礼を受ければ神に救われるのかも知れないが、キリスト教を知らぬまま死んだご先祖はどうなったのか。ザビエルは、洗礼を受けていない人は地獄だと答えたらしいです。その答えに対し、日本人は質問を止めません。
「あんたの神様は無慈悲で無能ではないのか。全能の神を名乗るなら、我々のご先祖を救うことくらいできるはずではないのか」
ザビエルは困ったらしい。当時、他のアジア諸国で、このような質問をされたことはなかったからです。
「もし神様が万物の創造主なら、なぜ神様は悪も一緒に造ったのか」
という質問もあったらしく、ザビエルは答えるのに相当苦労したようです。彼の書簡には、
「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」
という記述や
「もう精根尽き果てた。自分の限界を試された」
という手紙も残っているそうです。この逸話が事実ならば、当時ザビエルの話を聞いた人たちの学びの姿勢はすばらしいと思います。ザビエルが苦労したというのは、新しいことを知ろうとする意欲、教わったことを理解しようとする意欲、そして質問力の高さへの驚きという意味だったのかも知れません。勝手な推測ですが、この教え教わるの関係は、決して喧嘩のようなものではなく、かなり良質だったと思われます。
今の世の中、「先生」はそれでいいのか。
今の世の中、「生徒」はそれでいいのか。
教える姿勢、学ぶ姿勢について考えることは、とても大切なことだと思います。
今回は以上です。今日のあなたの精一杯の英語を話しましょう!!